僕が子どもの頃、近所に猫屋敷と呼ばれる家があった。
屋敷と言ってもよくある普通の一般住宅なのだけれど、壁を這う蔦草といい、細い路地の奥まった場所に建つその立地といい、子ども心に「屋敷」という呼び名がぴったりだな、と思ったものだった。そして、その屋敷にはたくさんの猫が住んでいた。もとい、住んでいたのは一人の中年女性であり、彼女が飼っている猫や餌付けした周辺の野良猫たちがその屋敷には頻繁に出入りしていた。
何も知らない当時は純粋にただ猫が好きな人の家、くらいに捉えていたけれど、今思えば人生も半ばを過ぎ一人には余る邸宅で孤独に過ごすその暮らしが、何か訳有りのものであるらしいことは薄々想像が付く。屋敷に集まる猫達はその寂しさの表れだったのかもしれない、と。
何年か前に、その家は取り壊されてしまった。住んでいた女性はどうなったのか、いったいどういう事情があったのか、それは子どもの僕にはわからなかったけれど、更地になったその場所を見た時、猫達は何処へ行ってしまったのだろうかと、それだけが不思議で、気がかりだった。
中学、高校と上がるにつれ路地を歩く猫の姿を見かける機会は減っていった。おそらくそれは、僕自身が野外で過ごす時間の減少に比例するものだったのだろうけれど、少しずつ高くなる視線に伴って、ぼくに見える世界は変化しているように見えて、その中から猫達の姿が消えていくことは、悲しかった。それはまるで子どもにしか見ることのできない森の妖精のように、どこか不可思議で神秘的な様相さえ、見せていた。
通っている大学の構内で一匹の猫をよく見かける。生協の近くで日向ぼっこをするのが好きらしいその猫は、大学生達から巧みに食料を「貢がれて」いる。彼、もしくは彼女は、そこが格好の餌場だと知っているのだ。あの日、何も無くなった空き地で行方を案じた猫達も、きっと同じように生き延びたのだろう。
人間社会の狭間を縫って、生きるもの。都市という無機質で無慈悲な構造が内包する獣道。人の世にも、独特の形で「野生」は息づいている。それは、コンクリートジャングルで生きる僕達が触れることのできる希有な生命の一端なのかもしれない。今も、どこかで細い隙間を歩くものがいる。
授業の合間に、膝に猫を乗せて昼食を食べながら、そんなことを思った。
(加筆修正)
(6割実体験)
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