--年--月--日 --:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

君たちは右に進んでもいいし、左に進んでもいい

2012年01月09日 01:02

もう僕の受験から3年が経つけれど、何故か今年は受験生の知り合いが多い。
さいころをひとつ振った時、出る目は六通りある。
もう一個振ると、起こりうる場合の数は全部で三十六通り。
仮に九つのさいころを振るとして、その中のひとつが実現する確率は、宝くじの一等にも相当する。

ここで、今、さいころを二回振って、1の目が二回出た。
はたして、この確率はどれだけだろうか。

答えは1だ。
1/36ではない。(試験では1とは書かない方がいいと思う)

既に起こってしまった事柄についての確率は等しく1になる。らしい。
僕達の人生には、数限りない分岐点があって、今僕達はそのどれかひとつの世界の先端にいる。
「多世界解釈」「エヴェレット解釈」と言って、物理学的に真面目な研究対象になっている考え方だ。
ここに至るその確率はとてもとても低いけれど、少なくともこの世界の、この時点において、その事実は動かない。
過去と未来のいちじるしい非対称性。それが確率と言うものらしい。


大西科学の『さよならペンギン』冒頭より。
量子SFと銘打ってはいるものの、あまり堅苦しくなく柔らかな読後感すらあって好きな本だ。


さて、このように、僕達は日々色々な分岐点を通って、たくさんの平行世界のどれかひとつを生きている。
ここからは僕の持論だけれど、それらの「起こり得たかもしれない他世界」の中には、今僕がいるこの世界よりもずっと良さそうなものがたくさんある。
後悔とは、いつかの分岐点で、選ばなかった世界への憧れに他ならない。
もちろん僕もいつも後悔している。あの時、選ばなかった、選べなかった道を羨ましく思う。
けれど、だからといって今の世界が劣っているとは思わない。
よく僕は高校時代を懐かしむし、大学に入ってからの時間を人生の低迷期のように言っているけれど、それは今を貶めているわけではない。
低迷はしているけれど、僕は生きていてつまらないと思った事もない。
こういう能天気な現実肯定が、良くも悪くも自分を変えようとしない理由なのだと思う。

結局、起こらなかった「もしも」への後悔や憧れは、見えないからこそのものだ。福袋と同じ。
米澤穂信の『ボトルネック』では、主人公は自分が存在しない「もしも」の世界に迷い込み絶望するけれど、そんなことは普通起こらない。「もしも」を想像することはできても、この目で見ることなどできないのだ。想像にいちいち絶望などしていられない。
要するに、樹形図のそれぞれの枝に優劣などないのだと、僕は思う。
だから、どんな結果であれ、それは決して失敗ではない。

けれど、それはあくまで過去の話だ。
これから起こるかもしれない未来は、まだ決まっていない。
だから人は、なるべく自分の望む未来を得ようと、試行錯誤するのだ。
後悔することは悪い事ではないと思うけれど、しないで済むならそれに越したことはない。

受験生の諸君が、後悔しないように、とは言わないまでも、
後悔がなるべく少なくなるような結果を得られるよう祈っている。
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメント編集・削除に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)



      上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。